鶏頭のとうとう枯れてしまひけり
正岡子規さんの俳句
1867年10月14日(慶応3年)~1902年9月19日(明治35年)36歳で没
東京の子規庵に行った時、庭に鶏頭が咲いていました。
庭に向いている机は、カリエスのため?座れず、立てた膝が当たらないように、机がくり抜いてありました。
壮絶な病魔との闘いが、垣間見られました。
今月の月刊[致知]に
正岡子規の
[余は今まで禅宗のいわゆる悟りということは、いかなる場合にも平氣で死ぬることかと思って居たのは間違いで、悟りということは、いかなる場合にも平氣で生きていることであった。(病状六尺)]
の記事がありました。
画像はこちらのサイトからお借りしています子規庵/東京の観光公式サイトGO TOKYO
[平氣で生きていること]
この言葉を初めて知ったのは、10年ほど前NHKTVでした。
[平氣で生きておることは、難しい。死ぬときがきたら死んだらええんやし、
平氣で生きておれるときは、平氣で生きておったらいいのや。]
曹洞宗大本山永平寺
宮崎奕保貫主のお言葉でした。
(1901年11月25日~2008年1月5日)108歳
それは、
[自然は立派やね~
規則正しい、そうゆうのが法だ
法にかなったのが大自然、
法にかなっておるのだから
自然の法則によって人間が暮らす~
何も考えない妄想せんことや
いわゆる・前後裁断や・
その時その時、一息一息しかないんだ~
心身は一如やから
体をまっすぐにしたら
心もまっすぐになっとる
人間は、わがままが自由やと思っておる
ちゃんと型にはまったものが、平生(日常)でなければならない。]
と言うものでした。
正岡子規 35歳の悟り
宮崎奕保 100歳の言葉
やっと、私の中で言葉が繋がりました。
💚平氣で生きていること
おちついて、心穏やに💚
ありがとうございます💗
老子
第二章
[たおやかに、自由に生きるために]
033 ほどほどのところ
ほどよいところで満足することを知れば、
恥をかくこともなく、
[もっともっと]の欲を捨てれば、
危ない目に遭うこともないのに・・・。
それなのに人は、
ほどほどのよさを忘れてさらなる欲を燃やし、
いつも不安と危険の中にいる。