蝉の鳴き声と秋の虫たちの鳴き声が入り交じるようになって、
まだまだ熱帯夜が続いているのに季節は移ろっているのですね。
親戚の子供は夏休みの終わりがけに
まだ読書感想文が終わっていない・・・と言って、
しかも本すら読んでいない状態で大変そうでした。
学校指定の本じゃなくても、自分で好きな本を選んでいいという自由度で、
私が小学生の頃とは変わっているのだなあと。
しかも一番大変だった自由研究が無いということで、ビックリしました。
大人になって思うのは、そんなに立派な文章書かなくても、
緩く考えればいいじゃない、感じたこと、思ったことを、
ダラダラ書き留めるだけでもいいのでは?ということ。
つまらないなら、なんでつまらないと思うのか、を文字にすればいいし、
何も思わない・感じないというなら、どうして心が動かないのだろう、
心が動くときってどういうときかな?ということで
話を広げていけばいいと思うのだけれど。
論文じゃなくて、感想文なんだから。
ただ、自分が感じたことを言語化する練習としては、
読書感想文は宿題としてはいいものなんじゃないかと、今では思っています。
話し言葉と文章の言葉は違うから、やっぱり練習しないと うまくできないから。
(私も文章うまくなりたいので練習しないとね)
自分が子供の読書感想文を読む側だったら、
子供らしい煌めきや柔軟な感性を知りたい、そういうものに触れたい、
むしろたどたどしい幼い表現も良い!と思うけれど、そんな大人に忖度したりせず、
難しく考えなくても短いセンテンスを繋いだだけの氣楽なかっこつけていない文章でもいいのではないかと思うんだけどなあ。
自分の考えを 大人に対して さらけ出すことに抵抗があるという理由で
なかなか書けないのなら、
例えば好きなキャラクターや好きな有名人が
もしも この本を読んだらこんな感じに言うんじゃないかという想像で書いちゃっても良いのでは?どうだろうか。
今ならアレコレ好き勝手にそんなこと言えるけれど、当事者はやっぱり大変だよね。
私は絶対に目立ちたくないタイプの子供でしたので、
先生に認められるような感想文書いて、
校内放送とか教室で読み上げさせられるくらいなら 怒られない程度に真面目で、
でも立派でもない真ん中辺の文章を狙いたいと思って書いてました。
ただ、図書委員の生徒が選考したりすると、
(当時、感想文に自分で考えた挿絵を描くというものあったのですが、)
一緒に描いた絵が氣に入られて張り出されたりするということもあるのだと学んで、
絵もあまり氣合いをいれない感じにグダグダに(笑)とにかく目立たないように、
モブでいたいと空氣のように大人しくしていたせいで返って先生が
「この子にも注目してあげないと可哀想だ」とか思われてしまっていたのかも。
今となってはわかりませんが。
親戚の子が頑張っているのを聞いて、
連想ゲームのように 自分の小学生時代を思い出しました。
地球さん愛してます。宇宙さん愛してます。
にほんブログ村